koke_sangoの日記

ADHDの子供2人と私と主人と趣味などと

いい思い出がない話

今週のお題「おじいちゃん・おばあちゃん」

 

私だけがスッキリする話です。

オチはない。

 

 せっかくの敬老の日関係のお題だというのに、私の祖父と祖母には全くいい思い出がない。

 私が物心ついたときには、祖父と祖母は喧嘩ばかりしており、夫婦仲が良いとは到底思えなかった。

 祖母は幼い頃から体が弱かったらしく、入退院を繰り返し、その手間や病気の介護がかかるたび、祖父は家族全員で囲む食卓で文句を言った。

 祖母も祖母で、病気のストレスを母にイビることで当たり散らし、そのイビリが私まで巻き込んでいた。

 あまりにも酷いイビリに、母はとうとうノイローゼになり精神病院に入院してしまった。

 母が入院している間の私は、祖母に拘束され奴隷のようにこき使われていた。その頃の私はまだ小学1年生だった。

 私には妹もいたが、妹のことは祖母がなぜか毛嫌いし、毎日のように呪いの言葉を受けていたようだった。

 子供なりに、どうすれば祖母の機嫌が良くなって、祖父の機嫌も良くなるのかと、必死に考えて動いていた気がする。祖母の肩を揉んでいる時は、黙って祖父に対する愚痴を聞き、祖父が食事時に祖母の文句をいえば、それも黙って聞いていた。

 その頃の私の、母への思いは、実はあまりなにもなかった。あまり家にいない人だったからだ。朝から晩まで働き、隙間時間になんとか家事をしている状態だったので、母の姿を見ることは一日のうちに1時間あるかどうかくらいだった。

 父も、ほとんど帰ってこない人だった。たまに早く帰ってきたとおもったら、出されたご飯をひっくり返し文句を言い、そのまま勝手に外でご飯を食べてくるような人だった。

 だいぶ後に、不倫していた証拠を私がまたまた掴んでしまったので、自分の両親をほったらかしにしておいて、他の家に転がり込んでいたんだろうと思う。

 私たち姉妹は必然的に、祖父祖母の2人と長く接していることになる。

 祖父は妹を可愛がった。祖母に邪険にされる妹のために、やわらかいボールを買ってあげて、家の前で妹と祖父が遊ぶ声が聞こえてくる。

 祖母は私を可愛がった。祖母の可愛がり方は異常で、友達付き合いからその友達の御家柄やら成績やら聞いてきて、祖母のお眼鏡にあわなければ会ってはいけないことになっていた。

 だから、私はずっと祖母の部屋しかいることができなくなってしまっていた。祖母の部屋でやることといえば、祖母の洗濯物を畳むこと、マッサージすること、1日4回の医療機械のチェックをすること、祖父や母の愚痴を聞くこと、興味のない相撲の番組をずっと見させられること…

 窓の外から、祖父と妹の笑い声が聞こえる。それを見ることすら叶わず、あの時私はどん底の部屋にいた。妹の楽しそうな笑い声ですら、涙が出そうになった。私には、祖母がいる。祖父はついてくれなかったのだ。

 母が退院しても、その様式は変わることなく続いた。

 

 ある日祖母に、私はこの家を継ぐものであると言われた。うちは姉妹だから、どちらかが家を守らなければならないらしい。竹の物差しで叩かれながら、フローリングの床に2時間以上正座させられたり、長く伸ばしていた髪を突然短く切って、今日から男のように振る舞いなさいと、日々なに言ってるのかわからん謎の教育。

 男であらねらばならぬのなら、別に私はそれでもよかった。髪は短くしたらすぐ洗えてラクだし、動きにくいスカートも履かなくていい。体も大きく、力も強い私は普通に高校まで男の子と間違えられていた。

 友達も、もともと男の子と仲が良かったのもあって、完全に馴染んでいた。そうしたら当然、言葉遣いが荒々しくなってきてしまったのである。

 祖母は烈火の如く怒り狂い、竹の棒で私をしばき回し、そのまま過呼吸で救急車で運ばれ入院。さすがにこの時は殺されるかと思った。私も相当な怪我を負っていたけれど、救急車に乗るほどじゃなかったので乗車拒否した。入院になったと聞いた時は喜んだものだった。

 この時の折檻が、私が武道をやるにあたって、怖いものを減らしたい、強くならなければならない、自信をつけたい、というのにつながっているような気がする。

 

 なんやかんやで、祖母は私が大学の頃に亡くなった。涙は一切出なかった。

 祖母は7姉妹の末っ子。一番はじめに亡くなったので、今まで何にもしてこなかった6姉妹の、金は出さず口だけ出す攻撃がとんでもなかった。

 葬式のグレードから何から何まで指示しておいて放りっぱなし。祖母は家族葬と決めていたのに、大きな会館を指定してきた時は電話切った、と妹が笑って言っていた。

家族葬が始まり、父の姉、私からしたら叔母さんが、ここまで大変だっただろうに、最後までありがとうと泣きながら母の手を握っていたのをよく覚えている。

 精進落としの時、叔母さんが私だけにこう言った。

 あの人は癇癪もちで頑固で、一度暴れると手がつけられないときがたくさんあった。早死にする病気だと言われてから20年も生きた。その間の医療費もとんでもなかった。だから余計に周りに迷惑をかけた。見舞いに行くたび、そのうち私が母の首を締めて殺すことがあるかもしれないということを幾度も考えた。母殺しで新聞に載ったら、どれだけの人に迷惑がかかるかを考えて、なんとかギリギリで踏みとどまっていた。それなのに、最後まで面倒を見てくれたあなたの家族には感謝しかない。

 この叔母さんは、遠方のため手伝いに来れない代わりに、金銭的援助をたくさんしてくれていて、私は叔母さんに対しては憎しみもなにもなかった。むしろ、叔母さんの心中のことを考えると、ほんとうに辛かったのだろうなと。

 

 ヤングケアラーという言葉をご存知だろうか。若いうちから介護生活を送らなければならない人のことを指す言葉だ。

 私は大学に行って仕事につき、結婚して家を出たため、介護といってもそこまで壮絶なことをしてはいない。

 問題は妹で、そこそこ良い仕事についたが、実家暮らしのため祖父の介護が大変になってしまい、仕事をやめて介護をすることになってしまった。

 祖父は酒乱だった。いわゆるアルコール中毒で周りに迷惑をかけまくっていた。見張っているのにもかかわらず、何処かにお酒を隠していて飲む。深夜のコンビニで酒を買ってきて飲む。

 一度、泥酔状態で深夜のコンビニにこっそりお酒を買おうとしたところ、入り口で思いっきり転び顔面から大量の血を流していたのを、コンビニでたむろしていたヤンキーのお兄ちゃんに助けられ救急車に乗ったことがあったらしい。

 さすがに情けなくて泣いたと妹は言った。

 翌日には家に帰ってきたものの、毎日通院しなければならなくなり、外面の良い祖父は知り合いに会うと、わざわざ孫が心配してついてきてくれている、などのことを言って対面を繕っていた。さすがに本人も情けなくなったのか、それから一年ほどは禁酒したらしい。

 そして、アルコールも気がつけばコソコソと飲んで、ボケが一気に進行し、胃がんになり、訳のわからないうちに亡くなった。

 

 精進落としも終わり、私と娘が一旦実家に戻ろうとした時、祖父の兄弟に捕まった。

 祖父は4兄弟の末っ子で、話しかけてきたのは2番目のお兄さんだった。確かに、目元はよく似ているなぁと思った。

 どのような関係者かと聞かれたので、私のおじいちゃんですと答えると、その人の目が変わった。

 おじいちゃんは昔からチンピラで有名で、刺青も入れたりして、かなりヤンチャをしていた。その尻拭いを兄たちがしていたと。それなのに、これだけの人が葬式に来てくれるのはおかしい。(父の会社関係の人も多かったし、直接の関わりがある人はそこまでいなかった気もするけど…)悪いやつだったのに、なぜ孫やひ孫までできて、最後まで介護してくれる人がいて、これはずるいのではないかと愚痴を延々と言われ続けた。

 はあ…そうなんですねえ…知りませんでした…と適当に相槌を打つ。

 そういえば、祖父の足に火傷みたいな跡があるとは思っていたが、あれは刺青消した跡なのかなあととぼんやり考えつつ、遠くに見える時計はすでに9時を回っていて、私は2歳の子供を放置しておくのも限界なので、そろそろお暇いたします〜と席を立とうとした。

 しかし、まだ言いたいことがあったのか、なぜか祖父に対する恨み辛みを私に向かって当たり散らすので、親戚のおっちゃんに止められた。もういいやんか、死んだんやから!と。

 死んでなお、これだけの人が集まるのも最後まで看取られるのもおかしい、あいつはズルいと騒ぐ祖父の兄、親戚のオッチャンが、ここはなんとかするから帰りや、と言ってくれたので、なんとか脱出。

 うちの祖父は、どれだけの恨みを買っていたのだろうか。翌日、親戚のオッチャンに、昨日はありがとうと礼を言いに行った。

 生きてるうちに本人に言ったらええのになあ、孫やからって関係ないのに巻き込まれて災難やったなあ。そう言われ、肩の荷が降りた気がした。

 

 ここまで書いて、スッキリした。

 読んでいた方はスッキリしない話だと思うけど、私はすごく気持ちが落ち着いた。

 おじいちゃんやおばあちゃんとの確執。周りの人は、みんなおじいちゃんとおばあちゃんに恵まれていて、誰にも言い出せなかったこと。

 

 今年の敬老は、私の父と母と妹にも。

 父は不倫で振られてからは完全にATMと化している。

 母は今もパートでバリバリ仕事をこなして、昔のイビリで泣いていた頃を思い出させない獅子奮迅の働きをしている。

 一番心配なのが妹で、長いこと介護のため仕事をしてきていなかったのがあり、なかなか定職につけないでいる。

 今年はコロナ禍、旅行のプレゼントもできない。食の好みも全員違う。何が喜ばれるのか、連休明けまでじっくり考えようと思う。